2012年1月19日木曜日

人間ゲーテを語る<下>


聖教新聞 2003年(平成15年)3月15日(土)掲載
二〇〇三年三月十日 於・創価大学本部棟

創価大学創立者 池田大作先生
第一回 特別文化講座

 人間ゲーテを語る<下>



☆創大生に勝利あれ 正義の炎を永遠に!
私は人間!戦う人間!
詩人にして人道の政治家ゲーテ <鉄の忍耐>で民衆のために

☆ゲーテさえ野心家の策謀で攻撃された
燃やせ! 言論の魂を

☆もっと<光>を! もっと<対話>を!
わが生命の宝石を磨け

☆「強く生きぬく」ことが幸福
子どもたちの死 庶民の妻への偏見 風雪越え不朽の人生

(以上、新聞の大見出し中見出し)

◎ガンジーは獄中でゲーテを愛読

現在、名誉なことに、世界各地の大学などで「ガンジー・キング・イケダ――平和建設の遺産」展が開催されています。(1)

註(1)創大創立者の平和行動に深く共鳴したアメリカのモアハウス大学キング国際チャペル、ガンジー非暴力研究所などの尽力により、二〇〇一年にモアハウス大学で初の開催。創立者を、〝マハトマ・ガンジー、キング博士の非暴力の闘争の継承者〟と評価している。

かつて、このマハトマ・ガンジーが、非暴力の闘争で獄中にいた。

偉大になる人間は、迫害され、牢獄に入っているものです。順調に、苦労もせず偉くなった人間は、本当は偉くない。偉そうに見えても、それは一つの格好、形式にすぎないのです。

その獄中でガンジーは、ゲーテの名作『ファウスト』を愛読した。真剣に読んだ。これは、知る人ぞ知る逸話(いつわ)です。重要な事実です。

これを知った時、私は感動しました。

ガンジーと同時代に、「創価教育の創始者」である牧口先生は、日本の国家主義と戦い、殉教を遂(と)げる直前まで、カントの哲学を精読しておられた。その姿と重なり合うように感じたからです。

真実の探求者、そしてまた正義の闘士は、たとえ牢獄に囚われても、その魂は光っているのです。反対に、牢獄の外で動いている人間であっても、その魂が光っているかどうかはわかりません。

偉大な人は、どこに行っても光っている。その「魂の光」をつくるのが教育です。正義の戦いです。

光る人とは、ただテレビで流れてくるような有名人や虚栄人ではない。人間の内奥(ないおう)から発する崇高な光――これを輝かせていく。それが最極(さいごく)最高の勝利者なのです。

いくらテレビでいい格好をしても、それは幻であり、幽霊みたいなものだ。社会的にどれほど有名になっても、財宝を無量に持った人でも、探求と正義の志を閉ざしてしまえば、その人の魂は暗闇です。

ここです、人間の真髄の道は。これを今、教える人がいない。哲学者がいない。正義の人間がいないのです。

世渡りがうまい、口がうまい、頭はいい――そういう人はいる。しかし、その人は、利口そうに見えて、本当は愚かです。人間として、一番大事なことを知らないからです。

ゲーテは言いました。

「名声は求めて得られるものではない。それをどんなに追い廻(まわ)したところで、無駄さ。

利口に立ちまわって、いろいろと策を弄し、まあ一種の名声を挙げることはできるかもしれないが、心の内に宝石がなければそれは空(むな)しいもので、永つづきするはずもないよ」(前掲『ゲーテとの対話』下、山下肇訳)

それでは本当の幸福じゃないよ――と。私も賛成です。

◎人々のための活動に没頭

「じつに六十年の歳月をかけて完成させた、あの『ファウスト』に、ゲーテが死の直前、最後に筆を入れた一行があります。

それは何であったか。

「自由な土地に自由な民とともに生きたい」(手塚富雄訳、中央公論社)という、大いなる願いを込めた一文でありました。

思えばゲーテは、青春時代から、こうした、理想の社会をつくるという大願を抱いていました。二五歳で小説『若きウェルテルの悩み』を著したあと、ゲーテは、ワイマールの君主からの招聘(しょうへい)に応じます。そして、この国で十年間、総力をあげて、「政治の変革」に身を投じていきました。

ゲーテはつづりました。

「人格形成がある段階に達したら、より大きな集団に身を投じることをおぼえ、自分以外の人びとのために生き、義務にかなった活動に没頭することを習うのが、身のためになります。そうなってはじめて、自分自身を知ることができるのです」(前掲「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」前田敬作・今村孝訳)

これをゲーテは自分自身に課したのです。

当時は、多くの庶民が、重い税金と、頻発する大火、洪水に苦しんでいた。財政は、為政者(いせいしゃ)の無責任のために、完全に疲弊(ひへい)し切っていた。

彼、ゲーテは、この厳しき現実のなかにあって、大臣として責任を一身に担いました。財政の立て直し。また農業、林業、鉱業などの産業の促進。道路建設や治水(ちすい)。さらに教育・学術の振興。そして進歩的な福祉の導入――これらを一つひとつ、確実に実現していきました。

「鉄の忍耐!」
「石の辛抱!」(ゲーテの日記、トーマス・マン『ゲーテとトルストイ』山崎章甫・高橋重臣訳、岩波文庫)。

ゲーテはこう自分自身に言い聞かせながら、庶民の幸福を願って、力の限界まで働いた。戦った。その姿は、「『自分は戦い抜いた』。こう言える人になりたまえ!」と後進に身をもって教えるかのようでした。

ゲーテの偉大なる数々の業績は、政治の世界に「人道主義の精神を導入した」と、高く評価されています。

この事実を、私は、心ある今の政治家にも知ってもらいたいし、ゲーテを読んでもらいたい。ゲーテのような詩人政治家、詩人の魂をもった政治家が少なくなったと嘆く人は多い。要するに、詩も文学も教育も政治も――本来、全部、つながっている。ゲーテは詩や小説を書いただけ――そう思ったとしたら、とんでもない。

政治をはじめ、あらゆる人間と社会の課題に立ち向かっていくのが、本当の詩人であり、文学者であり、教育者です。「宗教と政治」の関係も、それとまったく同じ道理です。

◎正義を傷つけることはすべて嘘

ゲーテは喝破(かっぱ)しました。「人間がほんとに悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる」(前掲『ゲーテの言葉』高橋健二訳)

人間、そこまで行ってしまう。今の世相(せそう)も、そうかもしれません。

若き日のゲーテは、ルソーの思想について、師匠のヘルダーと語り合っています。

ルソーは断言します。

「正義を傷つけることはすべて嘘なのである」(『孤独な散歩者の夢想』今野一雄訳、岩波文庫)。

讒言(ざんげん)――悪質なデマは正義の人を陥(おとしい)れる常套(じょうとう)手段(しゅだん)です。

私自身、讒言で攻撃されてきた。全部が嘘であり、金もうけのための作り話である。裁判においても厳然と勝利している。神聖な教育の場であるゆえに、あえて明言しておきたい。

ゲーテも、手塩にかけた「ワイマール劇場」の劇場監督の要職を、恩知らずな野心の女優の画策(かくさく)によって、何のいわれもないのに追放されたことがあった。

自らの汗でつくり上げたものを、取り上げられたのです。

この構図こそ、古今東西を問わず、人間社会の暗黒の闇といってよい。

正義の人に対する讒言の一典型として、私が信奉(しんぽう)する日蓮大聖人の言論闘争について触れておきたい。平和の世紀を担う皆さんのために。

日蓮大聖人が、伊豆と佐渡に二度、流罪されたのも、全く事実無根(むこん)の讒言(ざんげん)によるものでした。

大聖人は、悪辣(あくらつ)この上ないデマによって、「犯僧(ぼんそう)」という根も葉もない悪名を、世の中にまき散らされた。さらにまた、大聖人への嫉妬に狂った極悪の坊主・良観は、作り話の讒言による裁判を起こしたのです。

大聖人は、痛烈に反撃されました。

「そのことについての、確かな証人を出しなさい」

「証拠がないのなら、現実に悪事をしているのは、あなたたちではないか! その罪を私になすりつけているのだ」(『日蓮大聖人御書』一八一ページ=行敏訴状御会通)

大聖人は、人々を惑わす妄説(もうせつ)に対して、「いずれの月」「いずれの日」「いずれの時」のことなのか、「だれが見たのか」「だれが書き残したのか」――これらを一つひとつ、厳格に問いつめて、嘘を暴(あば)いていかれました。(同三一九ページ=報恩抄)

青年ならば、学生ならば、正義の言論戦の魂を炎と燃やして、戦い抜いていただきたい。

◎ゲーテの結婚

ここで話はパッと変わる。「ゲーテの結婚」について。ゲーテの事実上の結婚は三十八歳。一七八八年七月のことでした。

すでにゲーテは、作家として確固たる名声を勝ち得ていた。政治家としても、十年以上にわたって活躍していた。

その彼が、〝結婚〟の相手に選んだのは、どういう人だったか。知ってる人?(「はい」と女子学生が手を挙げ、「庶民の女性です」と)

そうです。すごいね!

名家(めいか)の女性でもない。とくに学問ある女性でもない。美貌(びぼう)の女性でもない。

ゲーテの夫人となったのは、町の造花工場で働く、平凡な女性でありました。当時、二十三歳。

どうして知っていたのですか?(女子学生が「母から教わりました」)

それは、お母さんが偉い(爆笑)。

名前は……田中先生、どうでしょう。

(田中教授「クリスティアーネ・ヴルピウスです」)

彼女は、きちんとした教育は受けていなかった。両親を亡くし、貧しい生活であった。しかし、朗らかで明るく逞(たくま)しい、気だてのいい娘さんであったといわれています。

政治家であったゲーテにあてて、就職を取りはからってくれるように頼む兄の嘆願書(たんがんしょ)を、彼女が直接、ゲーテに届けた。彼女と語り合うなかで、ゲーテは、心をひかれていった。そして二人は、事実上の夫婦として、一緒に暮らすようになりました。(正式な結婚は、その十八年後の一八〇六年十月)

◎「性悪(しょうわる)の連中など気にしません」

それは、当時の封建的な階級社会には、およそ受け入れられない〝身分違い〟の結婚でした。

周囲は、囂々(ごうごう)たる非難や嘲笑(ちょうしょう)を浴びせます。

しかし、彼女はすべてに、明るく耐え抜いた。上流階級の女性たちから、どんなに嫉妬の悪口(あっこう)を言われようと、彼女は平然としていた。そして、彼女からは、だれの悪口も言わない。噂話(うわさばなし)も、一切、口にしない。聡明な女性だった。

ゲーテは、この心美しき妻を、徹して守り、励ました。こういう手紙を送っています。

「世間の人たちが君のよい状態を快(こころよ)く思わず、それを損(そこ)なおうとしても、世の中とはそうしたもので、それは逃(のが)れられないことだと思いなさい」(エッカルト・クレスマン『ゲーテが愛した妻クリスティーネ』重原眞知子訳、あむすく)

手紙は、こう続けてありました。

「今私の作品をけなすことを商売にしているような性悪(しょうわる)の連中がたくさんいます。私はそんなことは気にせずに仕事を続けています」(同)

ゲーテは非難・中傷にも、悠然としていたのです。

世間の妬(ねた)みや無理解以外にも、彼女には苦労が多かった。

先ほども触れた通り、二人の間には五人の子どもが生まれたが、無事に育ったのは長男だけで、あとの四人は、いずれも、生まれてすぐに亡くなった。

大変な悲嘆(ひたん)の出来事です。二男は死産。長女も三男も十数日で死亡。二女は三日で亡くなったといわれる。

こうした筆舌(ひつぜつ)に尽くせぬ悲しみを、二人は、ともに乗り越え、ともに人生を深めていった。ともに強く生き抜いて勝っていった。

苦労が多いから不幸なのか。そうではない。人生は戦いです。戦って戦い抜いて、どんな不幸も乗り越えていっていただきたい。

苦労があってもなくても、何ものにも左右されない絶対の「幸福」をつかむのです。私は、それを訴えたいのです。

◎弱気になってはいけません

夫人は、ゲーテを献身的に支えました。

ゲーテの筆がなかなか進まない時は、「そのうちうまくいくでしょう。すぐに弱気になってはいけません」(同)と、明るく励ました。せき立てはしない。言い方が非常にうまい。

また、ゲーテが重い病(やまい)で、九日間も意識不明の重体に陥(おちい)った時、彼女は、わが身をなげうって看病にあたりました。さらに、ナポレオン軍が侵略し、ゲーテに危害を及ぼそうとした時には、敢然と立ち向かい、身をもってゲーテを守り抜いた。どこまでも健気(けなげ)な妻でありました。大変有名なエピソードです。

◎生き生きと 楽しみながら

彼女は「ゲーテ夫人」となっても、自分らしさを失わない。まったく変わらなかった。見栄(みえ)を張らず、地道な生活を精いっぱい楽しんで、生き生きと生き抜きました。

ゲーテは、妻について、「彼女が私の家に来てからというもの、私は楽しい思いばかりをさせてもらいました」(同)と感謝を込めて紹介しています。ゲーテの夫人が亡くなったのは一八一六年六月。五十一歳の年。ゲーテが六十六歳の時でありました。

その衝撃(しょうげき)をゲーテは、日記に、こう記(しる)しています。

「彼女は昼ごろに世を去った。私の内と外は空虚(くうきょ)でしんと静まりかえっている」(同)

◎「ここから見るラインは美しい」

ゲーテは六十五歳の年に、現在のビンゲン市を訪れ、「ヴィラ・ザクセン総合文化センター」の近くにある教会を訪問しています。(2)

註(2)ドイツSGI(創価学会インタナショナル)の総合文化センターはライン河に面した小さな山の中腹(ちゅうふく)にあり、その頂上に教会が立っている。

前にはライン河。そしてヴィラ・ザクセンの堂々たる建物。センターの裏手(うらて)に小高(こだか)い山があって、そこから見た景色が美しい。ゲーテは、その様子を「ライン紀行」に記しています。

「ここから見るライン河が一番美しい」――これはゲーテの有名な言葉です。皆さんも、いつか行ってください。

ゲーテは、ビンゲンの市民の力で、この山の緑地が保護され、後世の人々の喜びとなることを願っていた。その通りになっています。

ヴィラ・ザクセン総合文化センターでは、このゲーテの心を体(たい)し、ゆかりの地の自然や文化を守るとともに、ゲーテの「生誕二五〇周年」の祝賀行事も盛大に行いました(一九九九年九月)。地元の新聞でも報道されました。

この一帯を含むライン河流域は、現在、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界遺産(いさん)」に指定されています。センターの建物と庭園も、市の重要文化財として、市民の方々に広く親しまれていることも、付け加えておきたい。また、著名なドイツ古城(こじょう)協会が、「文化遺産の保護の模範」であるとして、昨年(二〇〇二年)、私に「特別顕彰状」を贈ってくださいました。

◎死の直前まで仕事を続けた

ゲーテが死んだ時の様子は、どうであったか。いつ、どこで死んだか。どういう死に方だったのか――。人は皆、必ず死ぬ。だからこそ私は語っておきたい。

ゲーテが亡くなったのは、一八三二年の三月。詳しく言えば、三月二十二日の午前十一時半とされている。

彼が長年すごした、ワイマールの自宅で亡くなりました。八十二歳と七カ月という長寿であった。戦い抜いて、長生きしたんです。

その年の三月は、寒さが厳しかった。それでもゲーテは、いつものように仕事を続ける。訪問客を受け入れて対話をする。意気軒高(いきけんこう)にすごした。偉人は、死の直前まで、生き生きと働いていた。

しかし三月十五日ごろ、風邪(かぜ)をひく。一度は回復するが、その後、悪寒(おかん)や激しい胸の痛みに襲われる。そしてそのまま、長く苦しむことなく死んでいった。去っていった。

医師の下した死因は「カタル熱、肺炎、呼吸困難、心不全(しんふぜん)」(前掲『ゲーテ――その生涯と時代』下)でした。

ゲーテは、妻にも、一人息子にも先立たれる。一人であった。妻は十六年前、息子は一年半前に亡くなる。彼の死を看取(みと)ったのは、嫁――息子の妻や主治医、書記や侍僕(じぼく)など数人であった。また、他の部屋には、孫たちや政府の高官らが控(ひか)えていた。

その日――ゲーテは侍僕に日付を確認する。きょうは何日だ? 三月二十二日と知ると、こう言う。

「じゃあ、もう春だね。治りも早かろう」(同)。

やがて、ベッドの横の肘(ひじ)掛け椅子(いす)に腰をそっとおろし、そのまま、眠るように亡くなった。医師は、それは「まれに見る穏やかな死」であったと報告を残している。

◎不動の志(こころざし)を

ゲーテの最後の言葉は、「もっと光を!」であったと伝えられる。これは、実際は「部屋のよろい戸を開けて、もっと光が入るように」との意味であったとも解釈されている。

それはそれとして、この言葉について、師である戸田先生は、私に語られていた。

「『もっと光を』という一言からは、『もっと世界を見つめたい』『もっと世界から学びたい』『もっと世界と対話したい』、さらに『もっと世界のために生きて、そして、もっと世界のために行動したい』とのゲーテの生命の奥底(おうてい)からの叫びが、聞こえてくるようではないか」

それが師弟の語らいの結論でありました。

先生とは、何度も語り合いました。先生も私が文学を好きなのを知っていますから、ひまさえあれば語っておりました。

ゲーテの亡骸(なきがら)の頭には、月桂樹(げっけいじゅ)がかぶせられる。国中から幾千(いくせん)もの人々が、その死を悼(いた)みゲーテの家に駆(か)けつけました。葬儀(そうぎ)は、逝去(せいきょ)の四日後の三月二十六日に行われた。

大公(たいこう)や大公妃(たいこうひ)も葬列に加わり、道中(どうちゅう)を埋め尽くした群衆が、皆でこれを見送った。墓所(ぼしょ)では、合唱隊が、ゲーテの詩をおごそかに歌った。

その一節には、「動ずることのない志(こころざし)、それだけが人間を不朽(ふきゅう)の存在にする」(前掲『ゲーテ――その生涯と作品』高橋義孝・佐藤正樹訳)と。

信念ある人こそが、不朽(ふきゅう)の存在なのです。

◎生き抜け 荘厳(そうごん)な太陽のごとく

ゲーテは、「死」という人生最大の問題を、真摯(しんし)に、そして深く洞察していた。

それには、学生時代から、死に直面するような大病(たいびょう)を何度も患(わずら)った経験が関係していたかもしれません。また、幼くして兄弟を次々と亡(な)くし、奥さんや五人の子どもすべてを先に亡くした経験も、その死生観に大きな影響を与えたのでしょう。

ゲーテは語っている。

「死を考えても、私は泰然自若(たいぜんじじゃく)としていられる。なぜなら、われわれの精神は、絶対に滅びることのない存在であり、永遠から永遠にむかってたえず活動していくものだとかたく確信しているからだ。それは、太陽と似ており、太陽も、地上にいるわれわれの目には、沈んでいくように見えても、実は、けっして沈むことなく、いつも輝きつづけているのだからね」(前掲『ゲーテとの対話』上、山下肇訳)

ゲーテは呼びかける。

「宇宙に帰りゆく迄(まで)、たゆまず活動を続けよう」(中村恒雄『ゲーテに於ける生と死と不死性の関係』河出書房)。

ゲーテは、生命は永遠であるとの確信を持っていたのであろう。仏法に相通(あいつう)ずる考え方である。

「ひとえに撓(たゆ)まざる活動の力を失わないようひたすら勉(つと)めねばならぬ」(同)と強調する。たゆみない活動、たゆみない仕事――それが永遠性につながると考えた。

たゆまず仕事をすることが一番、大切です。人類のために、人のために、自分のために。

実際、ゲーテは、家族の死などの悲しみを乗り越えて、ライフワークである『ファウスト』を八十二歳の年に仕上げた。亡くなる半年前のことです。死の床でもなお、仕事を続けていた。

ゲーテが死ぬ五日前に書いた最後の手紙には、こう記(しる)されています。

「私にそなわっているもの、残っているものを、できるだけ向上させ、私の特性を浄化させることより、私にとって緊要(きんよう)なことはありません」(高橋健二『ヴァイマルのゲーテ』河出書房新社)。

一〇日前には、「太陽は沈む時も偉大で荘厳(そうごん)だ」(同)と語ったといいます。

ともあれ、最後の最後まで戦い抜き、太陽のごとく赤々(あかあか)と輝き続けた崇高(すうこう)な人生であった。それがゲーテであった。皆さんも、そうあっていただきたい。

◎友情は永遠

ゲーテの棺(ひつぎ)は、ワイマールにあるワイマール大公家の霊廟(れいびょう)に、親友シラーの棺と並べて安置されました。ゲーテとシラーの美しい友情を象徴するかのように、二人は死んでも一緒でありました。

シラーはゲーテより一〇歳も若かったが、一八〇五年五月九日に四五歳でゲーテよりも先に亡くなった。

シラーの墓は、もともと別のところにあった。一八二七年にワイマールの君主、カール・アウグスト大公によって、霊廟に移動されたのです。

ゲーテは叫んだ。

「わたしは人間だったのだ。そしてそれは戦う人だということを意味している」(前掲『ゲーテの言葉』高橋健二訳)

人間とは「戦う人」である。

「有能な人は、常に学ぶ人である」(同)

本当の人間とは、学ぶ人である。

未来の偉大なるゲーテである皆さん!

諸君の前途(ぜんと)が洋々(ようよう)であり、そしてまた、すべての戦いが勝利であることを心から祈って、私の話を終わらせていただきます。ご静聴(せいちょう)、ありがとうございました。お元気で。

(2003・3・10)

(講義終了後、創立者は、同時中継の会場である隣の教室にも足を運び、学生に語りかけた(写真))

部屋が隣で、すみません。きょうは、私の話を聞いてくださり、ありがとうございました。お父さん、お母さんに、よろしくお伝えください。

卒業する人は、いますか?(多くの学生が手を挙げる)

行っちゃうのか!(笑い)

さみしいね。

でも全部、皆さんの名簿は、私のそばにずっと置いてあります。たまに見るんです。文集なども全部、置いてあるんです。

いつまでも健康で! 勝利の人生を頼みます。

お父さん、お母さんを大事にね。

お父さん、またはお母さんがいない人、ご両親がいない人もいるかもしれないけど、自分自身の心の中に生きています。

目には見えなくても、生きているんです。それが生命の不可思議です。

では、お元気で。

創大生に、栄光あれ!

『創立者の語らい12』 平成14年11月~平成15年3月 定価300円
創価大学学生自治会編 創価大学学生自治会発行 2004年11月4日 第1刷発行
により校正

(主な参考文献)
『ゲーテ全集』潮出版社、
『ゲーテとの対話』エッカーマン著・山下肇訳・岩波文庫 全3巻、
『詩と真実』ゲーテ著・山崎章甫訳・岩波文庫 全4巻、
『世界の名著38』中央公論社、
『ゲーテ伝』ハイネマン著・大野俊一訳・岩波書店、
『ゲーテ――その生涯と作品』アルベルト・ビルショフスキ著・高橋義孝・佐藤正樹訳・岩波書店、
『ゲーテ―その生涯と時代―』リヒァルト・フリーデンタール著・平野雅史・小松原千里・森良文・三木正之訳・講談社、
『詩に映るゲーテの生涯』柴田翔著・丸善株式会社、
『J・W・フォン・ゲーテ―旅路遥か、見果てぬ夢』丸山暢謙監修・栄光出版社、
『ゲーテとトルストイ』トーマス・マン著・山崎章甫・高橋重臣訳・岩波書店、
『ゲーテが愛した妻クリスティアーネ』エッカルト・クレスマン著・重原眞知子訳・(有)あむすく、
『ゲーテに於ける生と死と不死性の関係』中村恒雄著・河出書房、
『ファウスト』ゲーテ著・手塚富雄訳・中央公論社、
『現代に生きるファウスト』小西悟著・日本放送出版協会、
『ガンジー』ルイス・フィッシャー著・古賀勝郎訳・紀伊国屋書店

※引用に際し、旧かなづかいを新かなづかいに、旧字体を新字体に直した。

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